平成三十年度:2018年 飾り山
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長政関ヶ原武勲 壮烈岩屋城之戦
三宅隆 溝口堂央
[su_spoiler title=”解 説” style=”fancy” icon=”plus-square-1″]慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原で徳川家康方の東軍と石田三成方の西軍が激突。世に言う「関ヶ原合戦」である。この戦いで東軍に加わった黒田長政は合戦の先陣を務めて大いに武功を表した。戦いは一進一退の攻防を繰り返したが、午後に至り小平川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、東軍の勝利で幕を閉じた。 この時小平川秀秋に裏切りを勧めたのが黒田長政で、戦いの後徳川家康が長政の手を取り感謝したと言われている。この関ヶ原の武勲によって黒田長政は筑前国52万石を賜り、同年12月、豊前国中津城より小早川秀秋の居城であった名島城に移った。しかしこの城が52万石にはふさわしくなく、翌年から7年をかけて那珂郡警固村の福崎に新しく城を築き、城下町と出身地にちなんで福岡と名付け、ここに黒田藩の基礎が確立された。[/su_spoiler] [su_spoiler title=”解 説” style=”fancy” icon=”plus-square-1″]1586年九州制覇を目指す薩摩の島津義久は、最後の抵抗勢力である大友家の家臣、筑前の高橋紹運のもとに島津忠長、伊集院忠棟を大将とする二万の大軍を進軍させた。同年7月岩屋城(現四天王寺山)に高橋紹運は763名んと籠城。島津軍は、再三の降伏勧告をするも落ち目になったとしても主君は裏切れないとし応じず徹底抗戦した為、島津軍は総攻撃に出る。壮絶な戦いの後、ついに紹運は高櫓にて自腹して果てた。紹運以下763名全員が討死自害して、戦いの幕は降りた。島津勢も死傷者3000名ともいわれ、態勢を立て直すのに時間を要し、立花宗茂(高橋紹運の実子)が籠る立花城への攻撃も鈍り、その間に豊臣勢20万が九州に上陸し九州制覇という島津の野望は叶わなくなった。[/su_spoiler]
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山笠のある風景

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