[su_spoiler title=”解 説” icon=”plus-square-1″]巴御前は源義仲の平氏討伐に従軍した平安時代末期の女武者で、都落ちした主人義仲の最後の合戦まで生き残るも、末期までの同道を辞し生き延びるよう義仲から諭される。最後の奉公と敵将御田八郎師重と馬上で組み合い、最後には首をへし切り木曽に落ちたとされる。謡曲「巴」では義仲終焉の地である粟津ヶ原に幽霊となった巴が現れ、居合わせた僧侶に義仲の供養を請う。演目の最後に巴は義仲から末期に授かった守り刀と小袖を抱き消える姿が描かれ、激動の時代に翻弄されながらも思慕を貫いた女性として描かれている。[/su_spoiler] |
[su_spoiler title=”解 説” icon=”plus-square-1″]名古屋城は、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城で、現在に至るまで都市名古屋の象徴として全国に知られ、伊勢音頭に「尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。 築城は慶長15年(1610年)閏2月下旬から始まり、積み始めから3ヶ月も経たない8月に加藤清正が天守台を完成させた。清正は、美しく着飾った小姓とともに大石の上に乗り、綱引きの人々をはやし立てて見物人に酒を振る舞ったと伝えられ、「清正の石引き」として知られる。城下の賑わいは尾張徳川家第7代当主徳川宗春が作り上げたとされる。宗春は『温知政要』を著し、時の八代将軍徳川吉宗の緊縮政策を否定して城下に芝居小屋や遊郭など、娯楽施設を作る許可を出し、自らも白い牛に乗り長さ二間(約3.6m)ものキセルをくゆらせ歌舞伎や能の役者姿で城下に現れるなど、市場主義経済を民衆の前で体現した。「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われるほど経済を活性化させ、現在に至る名古屋繁栄の基礎を作ったとされる。名古屋城の現天守閣は、現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直すため、2022年12月に竣工の予定。[/su_spoiler] |